読了

 海と帝国 明清時代 中国の歴史第9巻
 中国人と言うのは昔は海を渡ると言うことに対しては消極的な人達でした。
 国内の物流は陸運と河川を利用した水運が主でした。その内水運は主に長江と黄河を利用する訳ですが、どちらも東西に流れており南北には流れていません。経済の中心である華南や華中と政治の中心である華北を結ぶ必要がありました。隋の煬帝はその解決策として大運河を開鑿したのですが維持・補修が大変だったようです。
 その後元代になってようやく海運が盛んになります。造船技術の進歩と南北を結ぶ航路が開拓されたおかげです。しかし元の後を次いだ明の太祖洪武帝はその海に背を向ける政策を取ります。きっかけは我が倭冦の跋扈です。倭冦が日本人だけでなく現地中国の海賊などと結びつき、政権転覆にもつながりかねない社会不安を増大させる事を恐れた太祖が海禁政策をとるようになったのです。中国皇帝を慕ってくる(と言う名目の)周辺各国の使節(を兼ねた朝貢貿易)もその規模や回数も決められ、中国皇帝を中心とするシステムに組み込まれます。
 我が日本も一時はそのシステムに参加します。南北朝時代、九州は太宰府にいた南朝懐良親王足利義満日本国王に封じ倭冦の取り締まりを命じます。しかしそれも長続きせず日本側はまた勝手にやりだすのです。すなわち足利幕府の勢力が衰えると守護大名が勝手に貿易に参入しトラブルを起こします。それに手を焼いた明朝政府は日本船の入港を禁止する事になります。これがまた倭冦の跋扈を招く事となり後期倭冦として東シナ海沿岸を荒し回る事になります。
 その後日本では織豊政権となりそれまで博多や堺で行われていた貿易を管理するようになります。しかし明側は相変わらず日本船の入港は禁止します。当時の日本には非常に重要な輸出商品がありました。石見銀山で採掘される銀です。明では銀経済が進行し銀が不足していました。日本山の銀が無ければ回らない状態だったのです。そこで取られたのが出会い貿易という手段です。すなわちマニラやアユタヤなどで中国船・日本船が出会って貿易を行うのです。江戸幕府朱印船貿易としてこの方式を踏襲します。しかし貿易が盛んになるにつれて問題も出てきました。それは銀の過度な流出です。それを押さえる為に今度は江戸幕府は貿易を制限するようになります。このためにポルトガル船やオランダ船それに中国船の入港を長崎だけにし、キリスト教との結びつきの強いポルトガルを排除してオランダ・中国との管理貿易体制に移行します。決して鎖国*1ではないのです。
 とまぁ中国と日本との関係を中心にかいつまんで書いてみました。中国が日本に対して随分手を焼いていた事が分ります。これまで大陸国家としての文脈で捉えられる事の多かった明や清ですが、海を通じ周辺各国との結びつき無しには語れないんですよね。清代にはさらに世界的なネットワークに組み込まれるようになっていきます。その辺りの事情も詳しく述べられていますが、長くなったのでここまで。

海と帝国 (全集 中国の歴史)

海と帝国 (全集 中国の歴史)

*1:よく長崎が唯一の貿易港だったと言いますが、そんなことはないですよね