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島津義弘の賭け 山本博文
 関ヶ原の戦いでは西軍についた島津氏。しかしその大将島津義弘の率いる軍勢は数百人しかいませんでした。結局戦闘には参加せず、終盤戦場を離脱する為に退却ではなく中央突破を行い、そのまま薩摩まで逃げ帰るという所謂「島津の退き口」のエピソードが有名です。しかしなぜ戦国大名の代表格である島津氏が数百名規模しか動員出来なかったのでしょう?
 島津氏が豊臣秀吉の軍門に下ったのは、秀吉の天下統一の最終盤の1587年の事です。当時島津氏は九州の3分の2を手中に収め九州制覇は時間の問題でしたが、秀吉の前にはその軍門に下る事になるのです。早くから中央政権に服属した諸大名の場合太閤検地などにより領内の中央集権が進んでいました。島津の場合は島津氏の直轄地は少なく、家臣団の発言力も多かったのです。その為朝鮮出兵の際も国元の無理解*1からの補給も思うように無く、遠征軍は大変な困難を強いられています。
 関ヶ原の時も行きがかり上西軍についた島津義弘ですが、国元にいる兄であり島津の最高権力者である義久に派兵の要請をしてもやはり反応は薄く殆ど援軍らしい援軍は得られずじまいでした。もし島津に十分な兵力があれば関ヶ原の勝敗は別のものになっていただろうと言うのは良く聞く話です。たしかにそうかもしれません。
 結局領内の旧勢力である家臣団を抑え大名の権力・経済力を強化することが遅れた事、そして中央政界に対する関心の低さが関ヶ原での醜態(敵中突破はあくまで怪我の功名)を生んだのです。その後島津は薩摩に立てこもり時間を稼いでいたのですが、勇猛な島津を敵に回すより国内の秩序回復の為には現状維持が得策との徳川家康の方針転換により西軍大名としては異例の領地安堵を勝ち得たのです。
 中央権力の圧力と中世の気風の抜け切らない家臣団からの反発。島津家に残された古文書を読み解く本書からは最強の戦国大名と言われる島津氏の複雑な御家事情が伺われます。

島津義弘の賭け―秀吉と薩摩武士の格闘

島津義弘の賭け―秀吉と薩摩武士の格闘

*1:朝鮮で軍功を立てても、恩賞が期待出来ない