街をさるく ※長崎街道編

小倉と長崎を結ぶ長崎街道は江戸時代色んな人が通ったことで知られています。そこを歩いてやろうというのが今回の企画。一度行ってみようと思っていましたが中々機会が無く、ふと思い立って行ってみたのが昨日の事。

ここが長崎街道の始点。我が家のご近所新大工町商店街の端っこ。ここからスタート。勿論家から歩いて来ました。

出発して直ぐは未だ街中です。トロトロ坂という石畳の道。とは言っても殆どは新しく敷き直したもの。写真の場所は中川橋という石橋なのでここだけ古い石のままです。

ここは現在の電車の終点蛍茶屋

元の「蛍茶屋」は電車の車庫の裏です。この一の瀬橋の右に蛍茶屋がありました。ここも長崎街道の始点の一つと言えるでしょう。ここから難所日見(ひみ)峠を目指します。

日見峠へはひたすら登って登って登って登ります。この写真はもう峠の頂上近く。西の箱根と呼ばれる日見峠ですが、しんどい事はしんどいのですが、そう大したこと有りません。こんなんで西の箱根とか言ってたら箱根峠に失礼やなぁと思いながら峠を越したのですが、下りだしたら坂が急なこと急なこと。東から登る人はきっと大変です。日見峠舐めてました。

麓に降りて後ろを振り向いて撮った写真。降りるのはあっという間でした。

麓に降りて、日見峠の東側の登り口に有る腹切坂で休憩です。なんとも物騒な名前の場所です。
もう足もパンパン。普段車ばかり乗っている田舎者は足が退化しているのです。昔から気になっていましたこの腹切坂。説明書きには江戸時代、細川藩士が近くの腕の立つ町人と棒術の勝負を挑んだが、返り討ちにあってしまい面目をなくして切腹した。近隣の人がそれを憐れみ供養塔を立てた、と言う意味合いの説明がされていました。うーん、なるほどお気の毒に。
ところが帰って他の資料を見ると、フェートン号事件の時警備の不手際を責められた佐賀藩士が天領長崎と佐賀領の境界の当地で切腹し、近隣の人がそれを憐れみ供養塔を立てたと言う解説が有りました。はたまた越中先生*1によると山の中腹を切り開いたから腹切坂と言うようになった。どれが本当なのでしょう?
その後は多少のアップダウンはありますがほぼ平地。肥前古賀の駅まで残り5キロ位?を街道沿いに歩いて汽車で長崎まで帰りました。行きは6時間、帰りは15分でした。
家についたら疲労困憊。晩飯食ってウトウトしてたら気がついたら朝になっていました。なすかむ見るとまた夜半から晴れたみたい。OV Boo撮れんかった。しかもKisさんが来崎されてたらしいです。知らんかった。○| ̄|_

*1:あの越中先生です。